脳神経を制する者は身体を制す、ニューロモジュレーションの現状と未来=TransTech2019から

AI新聞

耳につけるだけで心が落ち着くイヤホンから、額につけるだけでストレスを軽減できる小型デバイスまで、神経組織を刺激し、その活動に干渉するニューロモジュレーションの領域が、ここにきて急速に進化している。シリコンバレーで開催されたTransTech Conference2019に登壇したMathew Markert医師は、ニューロモジュレーション研究の現状と未来への展望を語った。この分野の研究が進めば、将来的にはボタン一つでリラックスできたり、超人的な能力を持てるようになるかもしれないという。ただこの領域でもやはり、データとAIの活用がカギとなりそうだ。

ニューロモジュレーションには、経頭蓋直流刺激(tDCS)、経頭蓋磁気刺激(TMS)、迷走神経刺激(VNS)など、いろいろなタイプがある。直流電流、交流電流、磁気、近赤外線、超音波など、与える刺激はいろいろあるが、どの刺激でも医療用としては、鬱やてんかん、痛み緩和などに用いられることが多い。一方、消費者向けのデバイスとしては体内に埋め込む必要のないウエアラブル機器としての開発、市販化が進んでいる。消費者向けデバイスは、リラックス効果や、認知能力や、記憶力、スポーツのパフォーマンスの向上などをうたっているものが多いようだ。

人類の意識進化を促進。脳への直接刺激技術にブレークスルー、10年以内の実用化目指す=TransTech2019から」の記事の中で、Jeffery A. Martin博士が超音波による脳への刺激こそが人類の意識を進化させる技術だと確信した話を紹介したが、Markert医師も焦点式超音波療法には高い期待を寄せているという。「超音波で最もエクサイティングなのが、弱い周波数で分子の薬を放出させる方法。狙ったところだけに効果を出せるので、可能性にワクワクしている」と語っている。

 

 

▼廉価版デバイスが可能な直流電気が一足先にプラットフォーム化?

ニューロモジュレーションの現状と未来について語るMarkert医師の話を聞いて、個人的に興味を持った話の一つが直流の電流を脳に流すtDCSだ。

同医師によると、tDCSはコストが低く、リスクも少ないのがメリット。一方で、脳全体への刺激になるので、脳の特定の場所をターゲットできないというデメリットもある。

医療用の機器としては、うつや、脳梗塞の後遺症の改善を目的としたものがあり、「そのメカニズムがまだ完璧に解明されたわけではないが、とても大きな可能性を感じる」と同医師は語る。

消費者向けには、スポーツ・パフォーマンスや、認知能力の向上に対する効果が期待されている。また同医師によると「例えば何かを学ぶたびに脳を刺激して興奮を促進すれば、学ぶことが楽しくなる。そうなれば学習スピードが向上するという研究結果もある」という。

小型電池で動くので米国では消費者向けに20ドル程度の廉価版小型デバイスが既に多く発売され、使用方法を解説するYouTube動画も多くアップされているという。

同医師は、低価格と安全性の理由からtDCSが広く利用されるようになり、データを収集することができれば、理想的な研究プラットフォームになり得る、と指摘する。

後述するが、同医師は、ニューロモジュレーションの領域で将来、刺激と同時にデータを収集するフィードバックループのプラットフォームが形成されることになると考えている。そうしたプラットフォームが巨大ビジネスになることは間違いない。まずは、tDCSで研究プラットフォームが作れるのか。その研究プラットフォームが果たして、巨大ビジネスへの足掛かりとなるのか。ニューロモジュレーション・ビジネスの最初の動きとして、個人的にこの領域の動向に注目していきたいと思う。

 

 

▼体内を「迷走」する迷走神経は万能薬?

tDCSほどビジネスとしての立ち上がりは早くないが、将来的に大きな可能性を持っているのが、迷走神経だ。迷走神経のすごいところは、人体のほとんどの臓器につながっているところ。「迷走神経(Vagus nerve)」の「Vagus」は、中世のラテン語で「放浪」の意味があるという。体内のあちらこちらに張り巡らされている、という意味らしい。

今は、てんかんや強度の鬱の治療法として迷走神経刺激療法が利用されているが、体内のあちらこちらに張り巡らされていることを利用し、将来的には身体の様々な臓器や機能の治療や、各種能力の開発に利用できるかもしれないという。

現在の研究領域としてまずは、炎症の制御がある。迷走神経を刺激することで、体内のいろいろな臓器や部位の炎症を抑えることができるかもしれないという。

また、強度の鬱の患者の迷走神経の一部を切断することで、鬱が治療できる可能性があるという。

このほか迷走神経への刺激は、グリセミック指数や、心拍変動、胃腸運動性などにも影響を与えることができるとみられている。

このように医療向けにもその可能性はかなり大きいが、消費者向けのカジュアルな利用にも期待が寄せられている。

例えば、迷走神経を刺激することで、脳波の中でもガンマ波を増強できることが分かっている。チベットの高僧など瞑想の達人が深い瞑想状態に入ると、ガンマ波が増強すると言われている。つまり迷走神経を皮膚の上から刺激する安価なデバイスが開発されれば、だれでもが簡単に達人並みの瞑想状態に入れることになるわけだ。

このほか消費者向けには、リラクゼーション、鎮痛効果、集中力向上、食欲コントロールなど、同医師によると「数多くのビジネスチャンスがある」と言う。

 

 

▼マルチモーダル、フィードバックループが未来

さて個人的に最も興味深かったのは、同医師が考えるニューロモジュレーションの未来だ。

同医師は「ニューロモジュレーションが人類を進化させるTransTechになるためにはデータが必要だ」と強調する。

どの程度の刺激で身体にどのような影響を与え、どのような効用があり、どのような副作用があるのか。データを収集してAIで解析すべきだという。

データとしては、DNAテスト、投薬履歴、個人の健康情報記録(PHR)、心電図、筋電図、心拍変動、睡眠データなどが考えられるが、それらのデータをすべて取得して、総合的に神経刺激との関連性を解析するようになる、と同医師は予測する。たとえ1種類のデータの質が悪くても、複数の種類のデータを収集し、総合して解析すれば、質の悪いデータを他のデータが補完してくれるようになるからだ。(関連記事:マルチモーダル学習がAIビジネスの未来=米ABIリサーチ)

また刺激を与えるのと同時にデータを取得すれば、刺激を与えることでデータがどのように変化するかを計測できる。その結果データの変化を基に刺激の量も変化させる。いわゆるフィードバックループを作らなければならないと同医師は指摘する。

つまりマルチモーダル・フィードバック・ループの仕組みが、ニューロモジュレーションの未来だと同医師は考えているわけだ。

その仕組みで一人一人の特徴をつかんでいく。自分の神経細胞はいくつくらいあって、どのように連携しているのか。通常はどのように作動し、どうなれば異常なのか。「それをマップ化し、神経力学の変数を作っていくことになるだろう」と言う。

そのような仕組みが可能になれば、ボタン一つでリラックスした状態に入れたり、超人的な能力を開発できるようになるかもしれない。「TransTechが目指す超越した意識状態にも簡単に入れるようになるだろう。経験したことのないような感覚体験を持てたりするかもしれない」と同医師は指摘する。新しいタイプの娯楽が誕生するかもしれない。

ニューロモジュレーションは、人間の精神にだけ影響を与えるのではない。迷走神経を使えば、身体全体に影響を与えることができるわけだ。ただしそのメカニズムは非常に複雑。AIなしには、実現できない世界だと思う。

ただそのプラットフォームができれば、ヘルスケアや医療が激変するのは間違いない。そのプラットフォームを開発した企業が、経済全体に大きな影響力を持つようになるだろう。大手AI企業が、この領域を狙っていないわけはない。

今まさに、新たなプラットフォームの覇権争いが水面化で静かに始まっているのかもしれない。

 

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湯川鶴章

AI新聞編集長

AI新聞編集長。米カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校経済学部卒業。サンフランシスコの地元紙記者を経て、時事通信社米国法人に入社。シリコンバレーの黎明期から米国のハイテク産業を中心に取材を続ける。通算20年間の米国生活を終え2000年5月に帰国。時事通信編集委員を経て2010年独立。2017年12月から現職。主な著書に『人工知能、ロボット、人の心。』(2015年)、『次世代マーケティングプラットフォーム』(2007年)、『ネットは新聞を殺すのか』(2003年)などがある。趣味はヨガと瞑想。妻が美人なのが自慢。

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