「AIに懐疑的」だった男が、Anthropicに入った理由——自己改善AI実装フェーズの号砲

AI新聞

AIエージェントを「slop(ゴミ)」と呼び、AGIは「あと10年かかる」と業界の熱狂に冷や水を浴びせていた人物が、Anthropicの平社員になった。

米AI研究の象徴的存在であるAndrej Karpathy氏が5月19日(米現地時間)、X上で短い投稿を残した。「個人的なお知らせ。Anthropicに入った。LLMフロンティアの今後数年は特に formative(形成的)になると思う。R&Dに戻れるのが楽しみだ」。投稿は最終的に1,360万閲覧に達した

Karpathy氏は2015年のOpenAI創業メンバーであり、その後Tesla AI部門ディレクターとしてAutopilotとFSD(完全自動運転)の開発を率いた。2024年にはAI教育スタートアップEureka Labsを創業して独立。最近では、自然言語による開発に「バイブコーディング」と名前をつけ、それが業界全体に広がったというAI業界きってのオピニオンリーダーでもある。すでに名声的にも財務的にも、誰の下にもつく必要はない人物だ。

その彼が今週からAnthropicで働き始めた。直属の上司は事前学習(事前学習)責任者のNick Joseph氏。AI企業の序列で言えば director レベル相当のポジションだ。Joseph氏自身もOpenAIに9ヶ月在籍した後に転籍したAnthropic初期メンバーで、OpenAI共同創業者がOpenAI出身の後輩の部下に入る、という異例の構図になっている。

しかし役職の話よりも、Karpathy氏に与えられたミッションの方がはるかに重要だ。

ミッション:Claudeを使って次のClaudeを作る

Joseph氏のXポストにこう書かれている。「Andrejを事前学習チームに迎えられて興奮している。彼はClaudeを使って事前学習研究自体を加速するチームを率いる。これに最も適した人物は彼以外考えられない」。

Anthropic広報がTechCrunchVentureBeatCNBCなどに送ったコメントでも、Karpathy氏の役割は「Claudeを使って事前学習研究を加速するチームを立ち上げる」と一貫している。

事前学習とは、巨大なデータセットを使って数週間から数ヶ月かけて基盤モデルに「世界の知識」を叩き込む工程のことだ。Claudeシリーズの中核能力はこの段階で決まり、その後のfine-tuningでチューニングされる。最先端AIモデルの開発で最も計算資源を食い、最も金がかかり、そして最も人間の研究者の時間を消費するフェーズである。

ここを「Claude自身に効率化させる」というのが、Karpathy氏のチームのミッションだ。

つまり、AIがAIを改良する。世代を重ねるごとに改良能力が上がっていく。AI業界でrecursive self-improvement(再帰的自己改善、以下RSI)と呼ばれる概念に他ならない。

「2028年までに60%の確率」——Clark氏の予告と符合

Karpathy氏の入社が偶然のタイミングではないことは、Anthropic共同創業者のJack Clark氏が約2週間前に放った予告と並べると、はっきり見えてくる。

Clark氏は5月4日付のニュースレターImportAI 455号で、こう書いた。「現代のAIシステムの開発を自動化するための部品は、すべて揃っている」。同日のX投稿では、より直接的な数字を出した。「過去数週間、AI開発に関する数百の公開データソースを読み込んだ。その結果、2028年末までに再帰的自己改善が起きる確率は60%だと考えるようになった。言い換えれば、AIシステムは間もなく自分自身を作れるようになるかもしれない」。

Axiosが5月7日に報じたClark氏のインタビューでは、より具体的だ。「2028年末までに、AIシステムに『自分のより良いバージョンを作れ』と指示するだけで、それが完全に自律的に実行される可能性が、五分五分以上だと予測している」。

AIが自分自身を改良できるようになる。そこからAIはさらに急速に進化を続けるようになる。ハリウッド映画に出てくるようなSF話が実現するわけだ。このフェーズをシンギュラリティ(技術的特異点)と呼び、これまでの社会とは全く別物の社会になる境目だという人もいる。

Clark氏はこれと並行して「The Anthropic Institute」という調査機関の発足を発表した。研究アジェンダの中核に据えられたテーマがRSIである。同機関の文書は「AIがAI自体の研究開発を高速化していることを示す兆候」が見え始めていると明記し、知能爆発に備える「火災訓練(fire drill)」の必要性まで主張した。

Karpathy氏の入社は、Clark氏のこの予告から2週間後に発表された。Anthropic社内で何が起きているかは明らかだ。RSIを単に予測する側から、それを実装する側に回ったのである。

「slop」と呼んでいた男の180度ターン

ここで注目すべきは、Karpathy氏自身がつい7ヶ月前まで、現在のAIエージェントを公然と批判していたことだ。

2025年10月、Dwarkesh Patel氏のポッドキャストに出演したKarpathy氏は、業界の楽観論を真っ向から否定した。「全体的に、モデルはまだそこに到達していない。業界は大きく飛びすぎて、これが素晴らしいフリをしている。素晴らしくない。slop(ゴミ)だ」。AGIまでの時間軸については「あと10年」と推定し、自分の予測は「シリコンバレーで普通に流通している予測より5〜10倍悲観的」と述べた。

Fortuneはこのインタビューを、「AIバブルを破裂させるかもしれない発言」と表現した。Karpathy氏は同時に「これがうまくいかなければ、ソフトウェア全体にslopの山が積み上がり、脆弱性とセキュリティ侵害が増える」とも警告していた。

その彼が、わずか7ヶ月後に「次の数年は特に formative になる」と述べて最先端のAI大手に入った。米AI評論メディア「The Algorithmic Bridge」のAlberto Romero氏はこの180度ターンをこう分析している。「Karpathy氏は企業に所属することを望んでいなかった。だがAI大手に属さなければAI研究の最先端にはいられないことも知っていた。彼は自由と最先端研究の間で板挟みになっていた。なぜ今、自由ではなく最先端研究を選んだのか。それは彼が今、何が来ようとしているのかを見たからだ」。

つまり、AIに最も冷静だった当事者の一人が、「自分が中にいなければ手遅れになる」と判断した。これがメッセージの本質である。

伏線:autoresearchという個人実験

Karpathy氏の今回の動きには、明確な伏線がある。

2026年3月、彼はautoresearchという630行のオープンソースPythonプロジェクトを公開した。MITライセンス。仕組みはシンプルだ。AIエージェントに学習スクリプトと評価指標を渡し、5分間の計算予算を与え、自律的に「コード変更を提案→学習→評価→改善があれば採用、なければgit reset」というループを回させる。

これはまさにRSIの最小実装だ。AI評論メディアTuring Postはこれを「自己学習の最もクリーンな小規模事例」と評している。「autoresearchがループから取り除いたのはKarpathy氏自身だ。彼がボトルネックだから。指標、予算、初期研究プログラムは彼が設定する。だが、各イテレーションの中にはもう彼はいない。彼は1階層上に移動した——実験をチューニングする側から、チューニングするループを設計する側へ」。

米テックメディアTechnobezzは、今回のAnthropic入りを「彼のautoresearch実験をフルチームに格上げする動き」と表現した。個人プロジェクトとして概念実証されたものが、AI大手の数百億ドル規模の事前学習パイプラインに統合される。これがKarpathy氏に与えられた仕事だ。

なぜRSIが「経済的に決定的」なのか

業界全体の文脈で言えば、RSIは単なる技術トレンドではない。AI産業の競争原理そのものを書き換える可能性がある。

事前学習は最も計算コストが高い段階で、最先端の開発総コストの大半を占める。仮にClaudeがClaudeの事前学習効率を5〜10%改善できれば、次世代モデルはさらに高い改善率で次々世代を作れる。これが指数関数的に複利で効いてくる。

米AI評論メディアTechTimesはこの構造を、「もしこの賭けが正しければ、それを最もうまく実行するラボは各世代の学習で複利のリードを得る。なぜなら、各世代のモデルは、前世代のモデルの支援で作られているからだ」と表現した。

Anthropic社内では既にこの兆候が見え始めている。Clark氏のImportAIによれば、Anthropicは「自社コードの大半が既にClaude Codeで書かれている」と認めている。OpenAIも「GPT-5.3-Codexが自分自身の構築を手伝った」と公言している。Google DeepMindのAlphaEvolveはLLMを使ってニューラルネットアーキテクチャとチップ設計を最適化している。

部分的なRSIは、すでに始まっている。Karpathy氏のチームは、これを「部分的」から「主要部分」へと押し上げる役目を負う。

三つの兆候が同時に揃った

Karpathy氏のAnthropic入りは、単独で見ても大きなニュースだが、最近数週間の動きと並べると意味が変わってくる。

第一に、Anthropicは5月初旬、米SpaceX運営のColossus 1データセンター(米Memphis)から計算資源を借りる契約を結んだ。22万GPU超の世界最大級のAI学習インフラだ。同じ日にxAI創業メンバーのRoss Nordeen氏がAnthropic入りを発表した。同氏も元Tesla出身。

第二に、Clark氏の「The Anthropic Institute」発足とRSI予測の公開。AI大手が自社の能力上昇についてここまで明示的に語るのは異例だ。

第三に、Karpathy氏の入社と並行して、同社はサイバーセキュリティ専門家のChris Rohlf氏(元Meta、Yahoo)をfrontier red teamに採用したことも同日発表した。red teamはAIシステムの安全性ストレステストを担う部署で、能力急上昇に備えた防御側の強化と読める。

米経済メディアSherwood Newsによれば、Anthropicは直近ラウンドで評価額9,500億ドルを記録した。OpenAIの3月ラウンド評価額8,520億ドルを上回り、世界最高評価額の非公開AI企業となる見込み。2026年後半のIPO観測も浮上している。

つまり、計算資源・人材・資本・安全保障体制が、RSI実装フェーズに向けて同時に揃えられた。

業界が見るべきもの

Karpathy氏のXポストは、表面的にはあっさりした個人的お知らせに見える。しかしその裏で、彼は明確な経済的・知的判断を下している。

「次の数年は特に formative になる」という一文は、Clark氏の「2028年までに60%」という予測と並べて読むべきだ。Karpathy氏自身が10月時点で「AGIまであと10年」と言っていたのに、わずか7ヶ月で「次の数年が決定的」に表現を変えたことの意味も大きい。これは時間軸の短縮を意味する。

RSIが本当に実装されれば、AI産業の競争構造は根本的に変わる。計算資源と人材を握るfrontier ラボが、世代を重ねるごとにリードを広げる。そしてそれを最初に実装したラボが、複利の優位を独占する可能性が高い。

Karpathy氏の入社は、Anthropicがその一番手になろうとしているサインだ。AIに最も懐疑的だった当事者の一人が、独立性を捨ててその列に加わったという事実は、業界全体に対する強いシグナルになる。

「Roll up your sleeves to not fall behind(袖をまくれ、さもなければ取り残される)」——Karpathy氏自身が今年に入って自分のXに残した言葉だ。彼は袖をまくった側に回った。

湯川鶴章

AI新聞編集長

AI新聞編集長。米カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校経済学部卒業。サンフランシスコの地元紙記者を経て、時事通信社米国法人に入社。シリコンバレーの黎明期から米国のハイテク産業を中心に取材を続ける。通算20年間の米国生活を終え2000年5月に帰国。時事通信編集委員を経て2010年独立。2017年12月から現職。主な著書に『人工知能、ロボット、人の心。』(2015年)、『次世代マーケティングプラットフォーム』(2007年)、『ネットは新聞を殺すのか』(2003年)などがある。趣味はヨガと瞑想。妻が美人なのが自慢。

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