米ベンチャーキャピタルのFoundation Capitalは、AIエージェント時代のエンタープライズソフトウェアにおける新たな競争軸として「コンテキストグラフ(Context Graph)」を提唱する論考を相次いで発表した。同社のAshu Garg氏とJaya Gupta氏の両パートナーが執筆したもので、SalesforceやWorkdayといった既存の「記録のシステム(Systems of Record)」を超える、意思決定の記録を基盤とした次世代プラットフォームの台頭を予測している。
行動データがB2Cを変えたように、意思決定データがB2Bを変える
このエッセイの出発点は、消費者向けと企業向けソフトウェアのあいだにある、これまで埋められてこなかった差への着目だ。NetflixやMeta、Amazon、TikTokといった消費者向けプラットフォームは、ユーザーの行動データを驚くほど細かく記録・分析し、「取得→学習→改善→再取得」という好循環を構築することで数百兆円規模の企業価値を築いた。何をクリックし、何を無視し、何を途中でやめ、何が戻るきっかけになったか——そのすべてがシステムの改善に還元された。
一方、企業向けソフトウェアは20年にわたってこれに相当するループを持てなかった。企業の意思決定はボタン一つで完結するものではなく、営業・財務・法務・経営など、それぞれ異なる立場と権限を持つ複数の関係者による交渉の産物だからだ。営業はスピードを、財務は利益率を、法務は過去の判断との一貫性を求める。そうした交渉の過程でなされる判断は、これまでシステムに記録されてこなかった。
B2C企業が20年かけて積み上げてきたこの仕組みが、B2B領域でも初めて実現しつつある——というのがGarg氏らの核心的な主張だ。
既存システムが見逃してきた「意思決定の理由」
既存のエンタープライズシステムは「結果」を記録するよう設計されてきた。割引フィールドには最終値しか残らず、なぜその数字が妥当だったかは記録されない。修正された契約条項には最終文言しか残らず、どの代替案が退けられたかは残らない。クローズしたサポートチケットには解決の事実しか残らず、なぜその対応が選ばれたかは残らない。
このエッセイはここで重要な区別を導入する。「ルール」と「意思決定の記録」の違いだ。ルールとは「ARR報告には公式定義を使え」といった一般的な指針であり、意思決定の記録とは「このケースでは、ポリシーv3.2のもとVP承認を経て、過去の類似案件に倣い定義Xを採用した」という個別案件の具体的な経緯だ。AIエージェントが真に機能するためには、ルールだけでなく過去の判断の経緯へのアクセスが不可欠だとGarg氏らは論じる。
こうした判断の記録がこれまで保存されてこなかったのは、単なる技術的制約だけではない。そこから学べるシステムが存在しなかったため、保存する理由自体がなかったのだ。意思決定データは仕事の「副産物」として捨て置かれ、メールスレッドや会議の記憶、Slackの雑談の中に埋もれたまま消えていった。
今なぜ可能になるのか——3つの変化
Garg氏らはなぜ「今」なのかの理由として3つの変化を挙げる。
第一に、企業の仕事が記録しやすい形に変わった。リモートワークや非同期コミュニケーションの普及により、意思決定はコメントスレッド、ドキュメントへの提案、チケット履歴、承認フロー、通話録音といった形で痕跡を残すようになった。かつて誰かの頭の中にしかなかった判断が、ワークフローそのものに記録として残り始めている。
第二に、LLMが非構造化データを活用可能にした。企業は長年、会議の文字起こしやチャットログ、ドキュメントのコメントを保有していたが、それは「検索できる」だけで「学習に使える」ものではなかった。LLMはそこから意思決定の要素を抽出し、システムが活用できる形式に変換することを可能にする。
第三に、そして最も重要な変化として、AIエージェントが自動的に意思決定の記録を生み出す。エージェントが25%割引を提案し、営業担当が「競合Xへの対抗が必要」とメモを添えて30%に修正したとき、その編集行為そのものが意思決定の記録になる。エージェントの提案は「システムが正しいと考えたこと」の記録であり、人間の修正は「モデルが見逃した判断」だ。エージェントがワークフローに入り込むにつれ、かつては暗黙知だった専門的判断が、承認・修正・例外処理という形で可視化されていく。
コンテキストグラフとは何か
こうした意思決定の記録が蓄積・構造化され、複数のシステム・関係者・時系列を横断して接続されたものを、Garg氏らは「コンテキストグラフ」と呼ぶ。モデルの思考過程とは異なり、過去の判断を検索・参照できる「生きた意思決定の記録」だ。
このエッセイが示す具体例はわかりやすい。更新契約を処理するエージェントが20%割引を提案する。社内ポリシーは10%上限だが、エージェントは過去の重大障害の記録、顧客からの「改善されなければ解約する」という申し出、前四半期にVPが同様の例外を認めた事例を参照し、財務部門に承認申請をルーティングする。承認後、CRMには「20%割引」という事実しか残らないが、コンテキストグラフには「なぜそれが認められたか」が丸ごと記録される。
この好循環が積み重なることで、グラフが十分な厚みを持ったとき、システムの能力は「以前どう対処したか」という検索から、「このように構造化した場合、何が起きそうか」という予測へと質的に変化する。
既存プレイヤーにはなぜ作れないか
意思決定の記録を残すには、判断がなされるその瞬間にその場にいなければならない。これがこのエッセイの問いの核心だ——「データが書き込まれる現場にいるか、書き込まれた後のデータを読むだけの立場にいるか」。
SalesforceやServiceNow、Workdayは現在の状態を保存するよう設計されており、意思決定が下された時点の状況を再現できない。割引が承認されても、その判断を正当化した経緯は保存されない。また、複数システムにまたがる判断を統合する位置にも存在しない。あるサポート対応の判断は、顧客の契約ランク、サービス水準の取り決め、過去の障害実績、解約リスクの兆候といった情報を横断して初めて成立するが、既存プレイヤーはそのすべてを見渡せる位置にいない。
SnowflakeやDatabricksはデータ転送(ETL)を経由してデータを受け取るため、意思決定の結果は得られるが、その判断に至る過程は得られない。意思決定が実行される現場にいることと、エージェントが構築される環境の近くにいることは、まったく別の話だ。
これに対しエージェントシステムのスタートアップは、データが書き込まれる現場に最初から座るという強みを持つ。ワークフローを実行しているため、後処理ではなくリアルタイムで、意思決定が確定する瞬間に判断の文脈を記録できる。
なおエンタープライズの意思決定記録は機密性が極めて高い。法律事務所では、あるクライアントの過去の対応履歴が別のクライアント、特に競合他社への対応に影響を与えることは許容されない。医療機関では、運用履歴が間接的に外部に漏れることも許されない。Garg氏らは、アクセス権限の管理にとどまらず、どの情報をどの判断に使わせるかまで細かく制御できる仕組みを持つプレイヤーが、データそのものと同様に長期的な信頼を積み上げると論じる。
スタートアップの3つの戦略
このエッセイはFoundation Capitalの投資先を例示しながら、スタートアップが取りうる3つの戦略を提示する。
第一は「既存の記録システムをゼロから作り直す」道だ。
投資先のRegieはこの戦略の代表例だ。従来の営業支援ソフトウェア(OutreachやSalesloftなど)は、人間の担当者が手順に沿って顧客にアプローチすることを前提に設計されており、複数ツールをつなぎ合わせた複雑な操作を人間が担っていた。Regieはこの前提を根本から変え、AIエージェントが見込み客の発掘、アウトリーチ文書の生成、フォローアップ、ルーティング、人間へのエスカレーションまでを一貫して担う営業プラットフォームとして設計されている。人間の担当者はエージェントの判断を監督・修正する役割を担い、その修正の一つひとつが意思決定の記録としてシステムに蓄積されていく。営業活動の履歴が積み重なるほど、エージェントの判断精度が上がる仕組みだ。
第二は「特定の業務を部分的に置き換える」道だ。
投資先のMaximorはこの戦略を財務領域で実践している。企業の財務業務には、入出金の管理、月次決算、会計処理の照合など、担当者が膨大な時間を費やす反復作業が多い。しかしそれを担うERPシステムを丸ごと入れ替えることは、コストと移行リスクの面で現実的ではない。Maximorはこの問題を、ERPはそのまま残しつつ、その上に乗る形で財務ワークフローを自動化するアプローチで解決する。照合ロジックの判断や例外処理の承認記録はMaximorが一元管理し、最終的な数字だけをERPに書き戻す。どこで誰がどういう判断をしたかという経緯はMaximor側に積み上がり、財務チームにとっての「判断の記録庫」になっていく。
第三は「これまで存在しなかった記録システムを生み出す」道だ。
投資先のPlayerZeroはこの戦略を体現している。エンタープライズのシステム運用現場では、障害が発生したときにSRE(サイト信頼性エンジニア)、サポート、品質保証、開発者がそれぞれ断片的な情報を持ち寄って原因を突き止める。「なぜ壊れたか」「この変更をデプロイしたら本番環境に影響が出るか」——こうした問いに答える情報は、各担当者の経験と記憶に頼るしかなく、体系的に記録されることはなかった。PlayerZeroはまずL2・L3レベルのサポート対応を自動化する形でこの現場に入り込む。そのプロセスで、コードの変更履歴、インフラの構成、顧客の行動履歴がどのように絡み合って障害につながるかのパターンをグラフとして蓄積していく。このグラフが厚みを増すほど、「過去に似た状況でどんな判断が正解だったか」という問いに答えられるようになり、既存のどのシステムも担えなかった「システム運用の判断記録庫」としての役割を果たすようになる。
また、こうした意思決定の記録が大規模に蓄積されると、エージェントがどのような判断をしているか、どこで失敗しているかをリアルタイムで把握する仕組みが不可欠になる。アプリケーションの稼働状況を監視するシステム(いわゆるシステム監視ツール)がソフトウェア開発の現場で欠かせないインフラになったように、AIエージェントの判断品質を監視・改善するための専用インフラが次の重要基盤になるとGarg氏らは論じる。投資先のArizeはその役割を担うべく開発が進んでいる。
「天井は組織の中にある」——次の数百兆円市場
このエッセイの結論は挑発的だ。法律・保険・医療・金融・調達・セキュリティのあらゆる企業分野には、数十年にわたって蓄積された組織知がある。それは一度も構造化されず、活用もされず、運用可能な形にもなったことがない。その知こそが、弁護士の1時間2000ドルの価値を支えている。
最新のAIモデルは「誰でも一定水準の仕事ができる」という底上げをもたらしているが、「その組織ならではの判断力」という上限には届いていない。その上限を規定しているのは、特定の状況のもとでその企業がどのように意思決定を行うかという、長年の経験と実績に裏打ちされた判断の蓄積だ。それはより優れたベースモデルでも複製できないものであり、今まさに記録・構造化・学習の対象になりつつある。
消費者向けプラットフォームは行動の記録を積み重ねて数百兆円企業を築いた。企業向けでその同等のことが初めて可能になろうとしている。今日コンテキストグラフを構築しているスタートアップが、次のエンタープライズ価値の時代を定義すると、Garg氏らは結んでいる。
参考資料:
- Foundation Capital論考:https://foundationcapital.com/ideas/context-graphs-ais-trillion-dollar-opportunity
- Ashu Garg氏 Xスレッド:https://x.com/ashugarg/status/2039745286483128449

湯川鶴章
AI新聞編集長
AI新聞編集長。米カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校経済学部卒業。サンフランシスコの地元紙記者を経て、時事通信社米国法人に入社。シリコンバレーの黎明期から米国のハイテク産業を中心に取材を続ける。通算20年間の米国生活を終え2000年5月に帰国。時事通信編集委員を経て2010年独立。2017年12月から現職。主な著書に『人工知能、ロボット、人の心。』(2015年)、『次世代マーケティングプラットフォーム』(2007年)、『ネットは新聞を殺すのか』(2003年)などがある。趣味はヨガと瞑想。妻が美人なのが自慢。