
私たちが生きる社会は、目に見えない速度で変わり続けている。特にAI技術の進化は、私たちの働き方や生き方に大きな影響を与え始めた。
2、3ヶ月前のことだが、OpenAIのCanvasが登場し、原稿を書くのが非常に楽になった。その頃には、週に2、3本の原稿を書いていたと思う。それまで週に1本くらいのペースだったので、生産性は2、3倍に跳ね上がった。
ところが、さらに進化したツールであるDeep Researchが登場してからは、意外なことに原稿を書くペースが落ちてしまった。理由は単純で、執筆があまりにも楽になり過ぎたからだ。
書きたいテーマをDeep Researchに伝えると、数十個のサイトにアクセスして情報を収集し、数分後にはそれを1本の記事にまとめてくれる。もちろんそれを加筆修正するわけだが、出来上がった記事を見たとき、ふと疑問が湧いた。「これは本当に私の記事と言えるのだろうか?」と。自分がどんな付加価値をこの記事に与えたのか分からなくなった。まるで誰かの原稿をそのままコピーしているような感覚に襲われた。ここ2、3日はそんな気持ちで何本かの記事を生成しては、ボツにしてきた。
かつては比較的高度な知的作業と思われていた調査や分析、執筆が、今や誰にでもできる単純作業になりつつある。つまり、これらの作業がコモディティ化してしまったのだ。そしてコモディティ化したものは、金銭的な価値も大きく低下する。「高度な知的作業の価値がなくなる日が来る」とは聞いていたが、実際に自分の身に降りかかると、少し驚きを隠せなかった。
社会はまだこの急激な変化に気づいていないようで、以前と変わらず執筆や講演の依頼が寄せられる。しかし講演中、自分の言葉に疑問を感じることが増えてきた。「私が話す意味はあるのだろうか」と。講演後に質問されると、「この人はなぜ私に聞くのだろう。ChatGPTに聞けばもっと正確な答えが得られるのに」と思うこともある。もちろん、私個人の経験に基づく質問なら私に聞くしかないが、一般的な事象に関する質問ならAIで十分だ。いずれ誰もがこのことに気づくだろう。
社会は急速に変わりつつある。そしてその変化は、私たち自身の生き方を見直すきっかけを与えてくれているのかもしれない。
これから私たちは、もっと人間らしい価値に目を向けるべきだろう。単なる情報の生成ではなく、人と人との共感や、創造的な表現に重きを置く生き方へとシフトしていくべきだと思う。
そんな未来を考えると、不安の中にも少しの希望を感じるのだ。

湯川鶴章
AI新聞編集長
AI新聞編集長。米カリフォルニア州立大学サンフランシスコ校経済学部卒業。サンフランシスコの地元紙記者を経て、時事通信社米国法人に入社。シリコンバレーの黎明期から米国のハイテク産業を中心に取材を続ける。通算20年間の米国生活を終え2000年5月に帰国。時事通信編集委員を経て2010年独立。2017年12月から現職。主な著書に『人工知能、ロボット、人の心。』(2015年)、『次世代マーケティングプラットフォーム』(2007年)、『ネットは新聞を殺すのか』(2003年)などがある。趣味はヨガと瞑想。妻が美人なのが自慢。