Wiredのデカルトの呪縛から「人工知能」を開放できるか:三宅陽一郎×井口尊仁×立石従寛 鼎談から。
人間は思考がすべてではない。
こんなことを言うと多くの人の頭の中に「?」が浮かぶことだろう。僕もかつてはそうだったけど、多くの人の脳は常に思考している。ぼうっとしていても何かを考えている。自分とは何か。自分は脳であり、思考である。多くの人が「人間は考える葦である」と思っているし、デカルトの「我思うゆえに我あり」を信じている。
しかし僕自身、ヨガや瞑想を日常的に行うようになってから、心が静まり返って思考がほとんど表面に現れないような状態のときにも、自分の意識や意思があることを実感するようになった。直感やクリエイティビティは、むしろ思考が動いていない状態のほうが起こりやすい。
なのですべて記号化できるという考え方や、人工知能は思考を再現するだけでいい、という人工知能研究のあり方に違和感を抱いていた。
この記事の中で三宅陽一郎氏は、西洋が陥っている3つのドグマの問題点を挙げている。1つは、知能=思考という考え方。これは前述のように、僕自身も違和感を抱いている点だ。2つ目は、「じっくりと考えれば、正しい行動ができる」という考え方。戦前の日本は、天皇が神で、日本は神の国、という大前提があった。この大前提のもとであれば、どれだけ考えても特攻隊を否定できない。今日の社会では、西洋的な科学万能主義、経済至上主義という大前提がある。今日の大前提が、絶対に間違っていないと果たして言えるだろうか。三宅氏は「人間はどんなに賢い人でもすべてを知っているのではないので、頭で考えれば考えるほどすごく狭い領域にとらわれてしまう」と語っている。
3つ目は、情報空間に依存しすぎ、ということ。「インターネットの拡大とともに、世の中のすべてが情報として処理できるという考えが蔓延し、人工知能もその文脈に乗ってしまっています」と三宅氏は指摘する。
これからの人工知能研究は、こうした西洋思想の呪縛から逃れていくことも重要だと三宅氏は言う。
まったく同感。
ではどうすればいいんだ。僕自身は、どうすればいいのかよく分からない。
それにしてもWiredって面白い記事書くなあ。