メートル法を採用していない国は、世界でも米国とミャンマー、リベリアの3国だけ。僕が米国で20年間生活したということもあり、どうして米国がメートル法に移行しないのかを質問されることがたまにある。
「マイルをメートルに変換した表記にするだけでいいじゃないか」という人がいるが、制限速度40マイルを制限速度64.3738キロと表記すると、覚えにくいし、分かりにくい。メートル法でキリのいい数字に変えるしかない。
道路交通法の改定や道路標識の書き換えは、比較的簡単だ。しかし、ミリ単位の正確さが求められる工場や建築現場ではどうだろう。すべての機械や道具、部品、材料を、4桁から5桁のメートル法表記にするのも大変だし、間違いのもとだ。といって米国内のすべての機械や材料を、メートル法でキリのいい数字のものに買い換えるのは大変なコストになる。
メートル法に変えることで、貿易などの面でメリットがある可能性があるわけだが、未来の不確かなメリットよりも、目の前の確かな損害に対して多くの人は「No」と拒否するわけだ。
メートル法への移行は、デジタル・トランスフォーメーション(DX)ではないが、国や企業を根本的に変える試みという意味においては、DXと同じような苦労がある。
アメリカがメートル法に移行に失敗した過程を検証することで、DXプロジェクトを進める上での参考になるかもしれない。
米国での現状を正確に言うと、米国内でメートル法がまったく使われていないわけではない。確かに道路の制限速度はマイルで表記されているし、スーパーで肉や野菜はポンド表記だが、ソフトドリンクなどの飲料はリットル表記だし、科学や学問の分野ではメートル法が使われている。つまり2つの度量衡システムが併存しているわけだ。
これを1つにし、世界標準のメートル法に合わせようという試みが、過去になかったわけではない。
米国にとってメートル法に移行する絶好のチャンスは、1964年に訪れた。米基準局(NBS)が、「マイナス影響が出る領域以外でメートル法を採択すべき」と宣言したのだった。メートル法への移行の機運は高まり、1968年にNBSが米国議会の依頼を受けてメートル法に関する調査報告書を提出。その報告書の中でNBSは、「米国は10年間かけて慎重にメートル法へと移行すべきだ」と提言した。それを受けて米議会が1975年にメートル法移行法を採択。それに基づき、メートル法移行に関する計画を策定し実際の移行を推進する米メートル法委員会(USMB)が設立された。
ところが実際には、USMBは官民の双方からほとんど協力を得ることはできず、移行は難航した。業を煮やしたUSMBは1981年に法的強制力を求めて議会に訴えたが、議会は動こうとしなかった。そして進捗がほとんどないことを理由に、レーガン政権は1982年に、ついにUSMBを解体することになる。
「お役所仕事だから、うまく行かなかったんだ」と結論づけるのは簡単だが、P&G元副社長Tony SalDanha氏が書いたWhy Digital Transformations failという本によると、お役所仕事だからではなく、民間企業のDXプロジェクトでも陥る失敗の原因が、メートル法プロジェクトにも見られるのだという。
この本によると、DXプロジェクトにはMTP、空気、スキン、パイプラインの4つの要素が必要だという。この4つが、メートル法プロジェクトには欠けていたのだとしている。
▼MTP(Massive Transformative Purpose)
MTPとは、「トランスフォーメーションの巨大な目的」ということ。通常のビジョンステートメントとは、スケールが異なる。人々をワクワクさせるような壮大な目的を掲げることが重要なのだという。
例えばGoogleは「世界中の情報を整理する」、テスラは「持続可能な運輸へと世界の移行を加速させる」というようなMTPを掲げている。
ほとんど不可能とも思われるような壮大なテーマに向けて、関係するすべての人々のやる気を最大限に引き出す。MTPにはそういう文言が必要なのだという。
米国のメートル法移行プロジェクトには、関係するすべての人をわくわくさせるような壮大なMTPが存在しなかった。MTPを大々的に打ち出し、広く認知させなかったことが、失敗の1つの原因だとしている。
▼空気
変化を促進しようという空気(雰囲気)を醸成するのは、経営者の責任になる。経営者が、プロジェクトへの関与レベルに沿ったメッセージを発信する必要があるという。
P&Gの場合、DX推進チームには次のようなメッセージを発信したという。
・完璧さを求めるよりも、スピードを重視
・成功するのはプロジェクトの10%だけでいい。早く失敗して学んで次につなげる。
・決められた範囲の中で自由に動いていいし、範囲外でも賢くリスクテイクすべき。
・社内に変化を拒む雰囲気があるのは仕方がない。ノイズから身を守るサポートメカニズムを用意しているので気にするな。
またDXプロジェクトの影響を直接受ける人たちには、次のようなメッセージを送ったという。
・どのような変化を目指しているのか。その変化があなたたちにどのようなメリットになるのか。
・移行期間中に、どのような協力をしてもらいたいか。
・移行をサポートしてくれた人に対する報酬について。
さらにその外側にいる人たちには、次のようなメッセージを送った。
・どんな変化なのか。なぜそれが必要なのか。
・このプロジェクトの中で、あなたにどのような役割を果たしてほしいのか。どこであなたに協力を要請する可能性があるか。
・プロジェクトを支援するために、会社内でどのようなメッセージやシグナルを発信してほしいか。
確かに「スピードが大事」「90%のプロジェクトは失敗してもいい」などというメッセージを経営者が発信したら、推進チームはずいぶんと仕事をしやすくなると思う。
この本によると、メートル法移行プロジェクトに関して、最終責任者である米議会の中でも意見が対立していたという。議会がそんな感じなので、推進チームを支援し、影響を受ける企業や、その周辺の人々からも応援されるような「空気」ではなかったわけだ。
▼スキン
英語にhave skin in the gameという表現がある。「自分の発言や行動に自らリスクを背負っている」という意味だ。著名投資家のウォーレン・バフェット氏が、企業の幹部などが自己資金によって自社株を購入している場合に、「He has skin in the gameと表現した。このことから、この表現がビジネスの世界で、一般的に使われるようになったと言われている。
DXプロジェクトでも、経営者がhave skin、つまりプロジェクトに社運をかけるぐらいの意気込みが必要だという。
プロジェクトに資金を投入することもそうだが、経営者がプロジェクトに関わる時間を増やすこともhave skinになる。プロジェクトチームのオフィスを経営者のオフィスの近くに設置することも大事だと言う。
会社全体をデジタルに移行する前に、広告をテレビや新聞といった伝統的メディアからネット広告などのデジタルに移行し、効果もデジタルで計測することで、社内外にデジタルへ移行する意気込みを見せるという方法もある。
メートル法移行プロジェクトでは、米議会はhave skinの状態とはほど遠かったし、大統領も自分の任期以前に決まったことに関しては、それほどやる気が出なかったのだろう。大統領が自分の任期中に、を完結させるほどのスピードがなければ、このようなプロジェクトを成功させることは無理なのかもしれない。
▼パイプライン
パイプラインとは、石油や天然ガスを輸送する道管のこと。この本では、DXのゴールに向けて、小分けのプロジェクトを順番に1つ1つクリアしていく行程をこう呼んでいる。
この本によると、DXプロジェクトでは、初速でどの程度スピードを出せるかが最も重要だという。最初にスピーディに小分けプロジェクトを成功させることで、ゴールに向けて進む勢いがつくのだという。
経験豊富なプロジェクトマネジャーは、最初に簡単に成功しそうな小分けプロジェクトに取り組むことで、長期プロジェクトに必要な勢いをつけるのだそうだ。
P&GのDXでは、3ヶ月以内に成功することが確実な小分けプロジェクトを、最初の4つの小分けプロジェクトの1つに加えることで、長期戦に必要な勢いを得たのだとしている。
メートル法のプロジェクトでは、こうした計画はなく、勢いがつかないまま、人々のやる気やサポートがどんどん減少していったのだろう。
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なぜ7割のDXが失敗するのか。
2020/11/13(金) 16:00 – 17:00
P&Gの元IT部門の副社長Tony Saldana氏が書いたDXのノウハウ本「Why Digital Transformations Fail(なぜDXは失敗するのか)」。米国で発売されて1年が経ち、今だに米Amazon.comで部門ベストセラー1位を保っていますが、残念ながら日本語には訳されていません。
この本の中には、P&GのDXを成功に導いた哲学や手法に加え、米国の大企業や政府機関のDXの失敗例が多数取り上げられています。著者のSaldana氏によると、DXプロジェクトの7割が失敗に終わっているというのです。
失敗事例の轍を踏まないようにDXプロジェクトを進めるには、どうすればいいのでしょうか。
このセミナーでは、本の中で紹介されている事例や同氏による分析結果を重点的に説明することで、原書を読まなくても1時間で重要ポイントを学んでいただけるように工夫してお話したいと思っています。
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